昨日友人の夫婦に待望の第一子が生まれました。
喜びの報告を受け取って、心から感動を分かちあいました。
「泣いた?」と聞くと
「泣いた~ よく分からいけど涙がつーって流れたよ~」という友人。
「だよね~!俺の時も、立ち会っている時は泣けなかったけど、
一人で家に帰ってほっと一息ついたら、号泣しちゃったよ~」
「いよいよパパだね~!」
なんて話していると、娘が生まれたその日の記憶が鮮明に蘇ってきました。
第一子が生まれた日
それは、4年前の2013年12月。
長女が生まれた日。
長時間の陣痛の末に長女が生まれたその瞬間は、きっと生涯忘れない記憶になるのだろう。
命懸けで頑張った妻と、命懸けで命をスタートさせた娘。
産声を聞いた感動と生まれた赤ちゃんの顔を初めてみた時の妻の安堵とした表情は、
僕の人生における宝物の一コマ。
それから数時間、生まれて初めての家族3人水入らずの時間を過ごした。
不思議な感覚だった。
幸せだった。
そして、一人で家に帰り、誰もいないマンションの静けさに浸り。
ベランダで、夜景を見ながら物思いにふけっていると、突然一筋の涙が頬をつたった。
感情が溢れ出た。
嬉しかった。
新しく生まれてきてくれた命が嬉しかった。
娘の生命力が嬉しかった。
どれほどの時間涙が止まらなかったかは分からないけど、ずっと泣いていた。
今思うと、その日から僕の人生観は変わった。
生命の誕生を見たその日。僕は生命の終わりを実感した。
命に限りがある。
そんなことは、当たり前のように知っていた。
知っていたけど、実感としてはなかった。
よく「命は有限だから、一日一日を大切に」という言葉は耳にするし、確かにな~って思う。
ただし、心から分かっていなかった。
娘が生まれたその瞬間。それは、「命がはじまった瞬間」だった。
「命はある瞬間からはじまるんだ。」
と言うことを目の当たりにした時、
「命はある瞬間に終わるんだ。」
という「命の終わり」を直感的に感じた。
命の終わりを感じた時の感情は、とめどない「感謝」だった。
自分自身が、今ここに生きていることへの感謝。
そこまで、育ててくれた両親への感謝。
両親がいることに対しての祖父母への感謝。
先祖への感謝。
そして妻への感謝。
妻と出会えたことへの感謝。
まさに奇跡としか言いようの無い命の連鎖。
見たことも想像したこともない数百年前の先祖が、
自分自身の命と、その子供の命を必死に守って、
育ててきたからこそ繋がる命。
その命の繋がりのおかげで、この世に生まれてきた娘の命。
良いようのない感謝で、
ただ、ただ涙とともに感謝が溢れでていた。
一日一日を大切にすること。今を生きるということ。
きっと、娘が生まれてきたくれたおかげで、
僕は、「命」に対して「最大限の敬意と感謝」を感じられたのだと思う。
その日から、「時」に関しての認識が変わった。
「その時、その時は本当に一瞬しかない」という認識に変わった。
例えば、寿命はあと50年あると仮定してみる。
そうすると、50年間という時間があると感じていた。
この日を堺に、それは間違いだと言うことが分かった。
50年という時間は確かにあるのかもしれないが、その中の、その時その時は一瞬しかないということ。
娘が生まれた日は当然、この日だけしかない。
娘が赤ちゃんで居る時はその時しかない。
はいはいするのも数ヶ月しかない。
一言しゃべれたことに感動する日々はほんの数日かもしれない。
その時その時の時間が、本当に貴重であるということ。
1年1年、1ヶ月1ヶ月が本当に貴重で、その一コマ一コマの時間そのものが「命」である。
それが分かった時、人生観が変わった。
人生は必ず終わる。
その前に「今という時」が必ず終わる。
大学生であるあなたは、大学という時間はあと数年で確実に終わる。
その大学生という人生を生きていられるのは、その時だけである。
社会人になりたての時もせいぜい1~2年。次のフェーズに必ず移る。
そう実感した時に、夢や理想を先延ばしにすること、それ自体がどれだけもったいないか。
「今」をおろそかにして、「未来」の夢が叶うわけはない。
そもそも「今」をおろそかにしている時点で、人生の無駄遣い、もっと言うと「生きながら死んでいる」。
有限の命を無駄に削っていると言えるだろう。
夢や理想に向かって「今日」という「命」を「今日」謳歌する。
その積み重ねにこそ、本当の意味での感動があるのだと感じた。
夢を追うことや、理想のライフスタイルを追うことだけが、
価値があることと言うつもりはないけど、
一度きりの人生を見つめた時に、やっぱり僕は理想のライフスタイルを生きたい。
今日の命を燃やして生きる方がカッコイイし、熱いし、価値的。
娘と過ごす今日という一日。
妻と過ごす今日という一日。
仲間と過ごす今日という一日。
一つ一つの「今日という選択」こそ、命の使い方。すなわち生き方になっていく。
どう過ごすかは自由だし、どれが良いというものでもない。
ただ、どう過ごすか決めるのは自分の意志で選択したい。
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